Archive for 30 September 2007

30 September

ten years ago


 一昨々日、音楽家・ヴァイオリニストのHONZIさんが亡くなられた。
 その日はばたばたと動き回っていたのだが、多方面から連絡をがあり、訃報を知った。

 ただ、私はHONZIさんとの面識は数える程しか無かった。十年程前の初対面の時が、言葉を多く交わしたときだった。記憶は定かとは言えないので、自分の過去を調べたところ、1997年の7月の朝日美穂さんのライヴにサポートとして参加した時に、HONZIさんに初めて会った。バンドメンバーは他に横銭さんds(元・ビブラストーン、現・面影ラッキーホール)や鹿島さんb(ヒックスビルとかいろいろ)がいたが、バンドのディレクションをしていたのがプロデューサーの高橋健太郎さんだった。

 私含め、横銭さんと鹿島さんはレコーディングでも一緒だったので、おおまかな方向性はつかめていたつもりだが、HONZIさんは多分このライヴの時に初参加と記憶する。(朝日さんの録音でのヴァイオリニストは太田惠資さんと向島ゆり子さん)当時の健太郎さんのディレクションは結構求道的で(もちろん悪い意味じゃないよ)リハーサルで一曲演奏し終わるごとに、グルーブの事はもちろん、音色やコード・テンションを細かく指示された。私としては、録音時にはわからなかったことが、垣間みられて、そのやり方に秘密を見た気がして、面白かった。
 ただ、HONZIさんはその時の音を大事にしているように思えた。こちらは徐々に構築するのに対し、彼女はどんどん姿を変えていった。が、この時間のあまり無い現場ではその方法はあまりそぐわなかったのかもしれなかった。結局、ヴァイオリンよりも鍵盤に向かっていることが多かった気がする。でも、本番になれば、こっちのものである。良い意味で、その時のプレイが出来、朝日さんのコンサートは成功したと記憶する。


 確かめたところ、1997年、私はかなり忙しく、いろいろ飛び回っていた。列挙すると、単発のレコーディングは多いので省略するが、関わっていたプロジェクトは以下。
 こなかりゆ、Mamadou Doumbia with MANDINKA、MOVES、向島ゆり子、田辺マモル、STRADA、小松亮太&ザ・タンギスツ、朝日美穂、大熊ワタル・ユニット、さねよしいさ子、SANDII、野戦の月、ソウル・シャリスト・エスケイプ、リングリンクス、、、。
 特に夏は忙しかったようで、Mamadou Doumbia with MANDINKAの山中湖での録音の合間に東京に戻って別の録音やリハーサルをしたりして、それが終わるとMANDINKAのヨーロッパツアー、帰国してすぐ、SANDIIや小松亮太くんが始まる。7月にはオフ・ノートのイベントや田辺マモルくん、そして朝日さんと同時にソウルフラワー中川くんのソロプロジェクト「ソウル・シャリスト・エスケイプ」も始まり、田辺マモルくんの録音でナッシュビルに飛んだりしていた。


 という時期だったので、その時の朝日さんのライヴの打ち上げは乾杯程度で、中川くんの現場に向かった。なので、私は酒の席ではHONZIさんと言葉は交わさなかった。その後、録音現場で会ったり、出来上がったら、同じ曲で弾いていたり、と言うこともあったが、挨拶以上の会話はしなかった。

 その程度の関係なのだが、なんとなく私が親近感をもっていたのは、おそらく彼女がフィッシュマンズに参加していたからだろう。

 あまり公言したことはないが、フィッシュマンズとの関係は結構古い。さらにさかのぼること10年程前(80年代後半)、私はBLACKMARKETというバンドに参加していた。(他に川口隊長やsaxの芝井さんらが参加していた)そのBLACKMARKETの対バンで何度も一緒にやっていたバンドが、フィッシュマンズ、ハバナ・エキゾチカ、ムスタングAKAだった。ムスタングAKAはたぶん程なく解散してしまったが、マービンには今でも、ときどきばったり会う。ハバナ・エキゾチカは周知のとうり、大野さんと吉永さんがバッファロー・ドーター。

 そしてフィッシュマンズ。物凄く軽やかで力が抜けたバンドに思え、個人的に親しくなった。

 89年、BLACKMARKETはCDをリリース。そして、それからしばらくしてバンドは解散した。当時平行して、Mr.Chirstmasというバンドにも参加していたが、自分のコンセプトのバンドをやってみたいと思った。そのコンセプトはRy Cooder「Show Time」の私なりの解釈だった。とりあえず、スタジオで音を出さなければ、と思い、フィッシュマンズの佐藤くんに連絡した。彼はすぐに承諾してくれて、スタジオには当時のフィッシュマンズのメンバーが全員集まった。多分、4〜5回は練習をしたと思う。が、私の技量不足もあったし、フィッシュマンズのデビューも重なり、そのセッションは頓挫した。

 ところが、なんだかんだと関係は続いた。フィッシュマンズのファースト・アルバムをこだま和文さんがプロデュースすることになり、プリ・プロダクションがWATUSIさん(当時Mr.Christmas、現COLDFEET)のスタジオで行なわれることになった。ディレクターや事務所も関係が深かったので、私はプリ・プロダクションにも少し呼ばれた。(プリ・プロダクションとは録音の前段階で、デモを録音したりすること。最近ではあまりやらなくなった気がする、というか皆、自宅でやっちゃうよな)当時のギタリストの小嶋くんは自分のトーンは持っていたが、器用なタイプではなく、おそらく、制作サイドの若干の危惧で、私に声がかかったのだろう。ただ、佐藤くんが小嶋くんと大切にしているのは、すごく感じた。その後、3枚目くらいまで、フィッシュマンズのプリ・プロや録音には、少しだが顔を出していた。(その辺りのアルバムにスペシャル・サンクスでクレジットがあった気がする)小嶋くんがギターを持って、うちに遊びにきて、『またレコーディングなんですが、どんな風に弾いたらいいですかね?』なんて相談されたこともあった。でも、前途のように佐藤が小嶋(もう敬称略)を大切にしていることは、痛い程感じたので、私は楽器こそは貸しても、一切ギターは弾かなかった。

 が、それから小嶋はフィッシュマンズを辞めてしまった。

 その後、こだまさんのレコーディングセッション(ドレッド・ビート・イン・トーキョウ)で、柏原譲や欣ちゃん、HAKASEと一緒になった。が、佐藤はその時、顔を出したかったようだが、都合がつかなかった。前後するかもしれないが、譲のレコーディングセッションにも参加した。

 それから、またまた話はどっちが先だったか憶えていないが、何かの用事で譲に電話した。彼は開口一番「あっ、桜井さんになったんですね」と言った。私は何のことか首を傾げたが、聞いてみるとフィッシュマンズのサポート・ギタリストの件だった。制作サイドからの打診もあった。が、佐藤からの連絡は無かった。(確か、関口さんになったんじゃなかったかな。Super BadやTomatosの)

 その後、フィッシュマンズはぐんぐん成長し、人気も出てきた。多分その頃、偶然リハーサル・スタジオで会ったのが、佐藤に会った最後だったと思う。

 それから数年後に佐藤の訃報を聞いたのだが、私はツアー中で、通夜にも葬式にも顔を出せなかった。

 HONZIさんはその頃のフィッシュマンズに参加していた。

 たまには、昔を思い出して、胸が熱くなることもある。そんなことを、思い出させてくれた彼女に感謝。

 御冥福をお祈りします。

05:52:59 | skri | No comments | TrackBacks