Archive for 10 September 2006

10 September

秋の夜長


 今年の夏は自宅での作業が多く、なんだかのんびりした感じでしたが、9月に入って、ようやくいつものペースになりつつあります。

 一昨日のライヴのセットリストでも、アップしようと思ったのですが、その前に感じたことを書いておこうと思った次第。
 
 一昨日のライヴはとても充実したものでした。もちろん完璧だった、とは言いません。ただただ、正統なやり方で、今後に繋がるものが見えた、という事が嬉しかったのです。
 
 ロンサム・ストリングスの面々はアメリカの今やルーツ・ミュージックと呼ばれるものに、個人差はありながら、影響を受けています。多少、乱暴に行ってしまいますが、玄さんはスティーリーダンのジェフ・バクスターでペダルスティールに目覚め、今やカントリータッチのプレイはあまりしませんが、スヌーキー・ピートと同列に語られるべき人で、いざという時のカントリーロック・タッチは絶品です。松永さんは音大でクラシックをやっていましたが、オーティス・クレイやO.V.ライトを聴いて、変わってしまった人です。が、タンゴの仕事もずっと続けてきていて(最近では近藤久美子さんのキンテート・オッセイロでも私は一緒です。ただいま、猛リハーサル中)そのビート感たるや、いったいこの人は何を知ったんだろう、と恐ろしくなる時すらあります。
 おそらく、この二人に比べれば、もしかしたら、私の方が、アメリカン・ルーツ・ミュージックと言うものにこだわっていた反面、離れてもいました。ボブ・ディランで英語の唄を聴き始め、その後、シカゴブルースやカントリーブルーズ、そして、スライ、マイルス、JB、P-Funkとアフロ・アメリカンの音楽を聴きあさりました。ただ、リアルタイムで威勢が良かったのは、フィッシュボーンやチャック・ブラウンやネヴィルブラザーズで、ダニー・ハザウェイはもう死んでいたし、マーヴィン・ゲイも死ぬ一つ前のアルバムだった気がします。その当時(20年近く前)、Black MarketというバンドとMr.Christmasという二つのバンドに参加していました。Black MarketはP-Funk インフルエンスのバンドでしたが、編成は3ピース+サックス、トロンボーンなので、1,2枚目のレッドホットチリペッパーズを思い起こさせる感じもあったかも知れません。Mr.Chistmasの方はデビュー当時は英国風のひねくれたポップス(と言えば、大まかですがわかりやすいかもしれません。私のそれまでの音楽経験にはあまり縁が無かったものでしたが、逆にそれが面白かったのです)でした。二つのバンドをやっていた所為か、いろいろな人と出会い、ぽつぽつとスタジオの仕事などもはじめ、音楽の視野や手法を現場で学んでいく訳ですが、やはりそれ以上にバンドで作り上げる、太さと反応は他ではなかなか得る事が出来ないものでした。Black Marketはその後すぐ分裂し(saxは川口隊長)、Mr.Chistmasは奇しくも音楽性をアフロへとシフトします。やはり面白いビート、グルーヴの追求、探求というのは音楽をやっている以上、性かも知れませんが、これが面白い。当時のベーシストは現COLDFEETのWatusi氏、ドラマーは元ビブラストーンの横銭ユージ氏と本当に追求しがいのあるメンバーに恵まれました。私はその頃なんといってもサニー・アデ インフルエンスでした。
 時を同じくして、Mr.Christmasにホーンセクションとして参加したのが、篠田昌已氏、関島岳郎氏でした。アフロビートや6/8を追求しながらも、この二人に出会った事で、フォークロアというものをやっと知る事が出来た気がしました。
 Mr.Chistmasはその後、大所帯になりすぎ、続けられなくなりました。そして、篠田さんは急逝し、コンポステラはなくなり、中尾勘二氏、久下惠生氏とともにストラーダを結成する事になります。
 その人脈で大熊ワタル氏とも知り合い、彼のバンド(現シカラムータ)に参加し、まあ、現在、という事ですが、ロンサム・ストリングスをやるにあたって、私にとってもう一人、重要な人がサム・ベネット氏です。彼はボストン出身のインプロヴァイザーとして知られていますが、とても優れたシンガーソングライターでもあるのです。ソウルフラワーの中川君の現場で彼にあったのですが(中川君の曲や唄はもちろん大変すばらしく太いのですが)決して太いとはいえないサムが作曲し唄う『gone(home)』と言う曲は、私が知らなかったアメリカ人の歴史を見たような気になったのです。
 結局はポシャってしまったのですが、その後、サム、関島らとバンドを作りかけました。その時、サムが唄っていた幾つかの曲がロスコー・ホルコムだったのです。ただ、多少歌詞は変えていて、おそらく彼一流の皮肉もたっぷりだったでしょうが、血の歴史、とも言うべきものは物凄く感じました。
 さて、私はどうするか、ということになるのですが、影響を受けたものは、仕方が無い、というと、開き直ったみたいで嫌ですが、検証を始めました。これはピーター・バラカンさんとも話をしたと思いますが、復讐、といったら大げさですが、そんなものにも似た感じで、アメリカの古い音楽を再度聴き直したのです。その時出会ったのが、『Anthology of Amercan Folk Music』です。もうそれは、血と歴史と伝承(復讐)で出来ているといっても過言ではないです。
 でも、私の事ですから、まあ、あまのじゃくです。玄さん、松永さんと私だったら、どんなスタイルであろうが、自分たちの好きなようには出来る確信はありました。ここはもう一歩踏み込んでやろうと、アメリカのロックではない演奏を具現化出来、なおかつ、他の演奏スタイルにも対応出来る個性を持った人が必要だったのです。こういう時、人の巡り合わせというものは、ついています。ちょうど、その頃私がゲスト参加したパスカルズのライブで原さんと知り合う事になります。打ち上げで原さんとブルーグラスの話をしたら、もう目の色が違う。(ライブでの、ブルーグラス関係のMCを知る人はご存知でしょう・笑)私とは違うアメリカを見ています。しかも、彼は現在の状況にも敏感で、その奏法は私の知るブルーグラスからかけ離れたところまで、具現化出来るのです。

 そんなこんなでバンドを立ち上げました。一枚目のアルバムは選曲こそ私のあまのじゃく加減が出ていますし、クレツマーや大原裕さんの曲があれど、アメリカン・ルーツ色は濃いかとは思います。その後、ライブはそう多くはないですが、重ねました。が、打楽器が無い所為か、アルバムよりわかりやすいグルーブでやらざるを得なく(バンドが若いからですが)カントリー・ブルーグラス系のインスト・バンドを感じた方も多いようです。その後、どこまでやればカントリー・ブルーグラスじゃなくなるのか、とちょっと冒険をした結果が2枚目です。それでも、その後のライブでは、そうイメージは払拭しきれたとはいえなかったですね。ただ、ピーター・バラカンさん、高橋健太郎さん、和田博己さん等と恐ろしく耳の効く方々が評価してくれたのは、嬉しい限りでした。
 あえて、一点集中から、グローバルな見方にシフトするのは、やはり時間がかかるし、捨て去ってしまっては一点集中した意味も無い。(まあ、捨て去るのも良いのですが)
 そういった意味では、出るまでに時間が必要だったのです。3枚目は。
 いろいろな方に、コメントをいただきました。それぞれ、違うところに着目していて、とても面白いです。月末にはフライヤーができるので、目に留まるかと思います。

 そして、中村まりさんに出会いました。もう一回、揺さぶられる事になったわけです。彼女は素晴らしいシンガーソングライターで、一人のパフォーマンスでも十分です。これは私の想像ですが、彼女は努力の人です。見様見まねで自分の音楽を紡いできたのではないかと思います。が、彼女もわからないうちに(と言うか、その見様見まねが半端じゃなかったのでしょうか)宿ってしまったものがあるように思えて仕方が無いのです。現代に蘇るといったら、失礼ですが、私も体験しなかった歴史を感じるのです。その力強さは、まさしく今のものです。
 
 先にも書きましたが、一昨日のライブは正統なやり方で、手応えを感じたものでした。
 先程、ライブテープを聴いてみました。中村さんのソロも素晴らしかったですが、我々が加わった時のものは、彼女の別の面が少しばかり見えて、私としてはやった甲斐がありました。やはりこのセットはまたやりたいものです。

02:00:08 | skri | No comments | TrackBacks